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引退ブログ#8 高槻達起

  • 執筆者の写真: kuyc-home
    kuyc-home
  • 4 日前
  • 読了時間: 11分
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今自分が引退ブログを執筆させていただけるという事実にまだ驚いていますが、これも沢山の方々に支えてもらったおかげです。どうにか四年間やり遂げることが出来ました。本当にありがとうございました。


引退ブログどう書こうか、この場をお借りして何を伝えようかということで非常に迷いました。伝えたいことは沢山あるし、その思いをのせる言葉もたくさん持っているけどこのブログという伝えられることが限られている中で何を伝えるかは本当に難しい。含蓄に富んだ文章を書けたりするほど文才もないのでいつも通り冗長に文章を書こうと思います。800字という字数制限は守れそうにないです。


先日、代交代式を終えました。

卒部生の言葉を聞いて現役部員はどのように感じたんでしょうか?色々な思いを持った人が居たと思います。

もっと感謝を伝えられる組織になろうと言う人、結果に満足し成仏してる人、未練がましく後悔を吐露する人、変な人。


自分は間違いなく代交代式では変な人でした。わかりにくく当たり障りのないことを話したからです。ですので、思いのたけをここで書かせていただこうと思います。


引退してみて数日。あるのは虚無と後悔。未練がましい性格が災いし、成仏している同期もいる中で、描いていたビジョンとは全く違う終わり方に納得できないまま終わった。今でも思い出せばレースのリザルトをみて下唇を噛む。思い出す回転、判断ミス、戦略の立て方のミス。もう一度やりたいが、どうしようもない、俺達にはぶつけるものはもう何もないから。インカレは一度きりだから。インカレは、浪人が出来る受験や留年が出来る学生生活とは違い、巻き戻しのきかない本当に一度きりのもの。だからこそ悪魔的な魅力、苦しみ、感動があるあの舞台。今思えば実力だった。その順位を取りうる実力でもあったことは理解している。その上であきらめられない気持ちでいる。スナイプ級総合5位。世界の中心かと思うくらい熱かった87代や今でも伝説となっている83代、84代に比べ我々は、今までで最高の環境を整えてもらったにもかかわらず、最低限のバトンをつなぐことしかできなかった。


90代のスナイプチームが始動した当初は、総合3位を目標にしていた。途中で血が沸騰するような熱々のミーティングがあった。実力をわきまえず「優勝」、「伝説を残す」という目標を立てた。そこからは必死だった。日本一になる為に日本一練習する。オフは2か月で3.5日。研究室もバイトも恋人も遊びもお金も後輩の機会もすべてを犠牲にし、1日中ヨットのことしか考えない生活がはじまった。きつくしかない練習から逃げずにいられたのはインカレ最終レース後に見られるであろう最高の笑顔、喜びを味わいたいという未知への欲求だった。時折参加するコース練、1週間前のプレインカレで着実に手ごたえも得ていた。しかし、思っていた結果は違った。笑っているのは他大学だった。


少し三章仕立てで回想をさせてください。


第一章 入部、問題児編

初めて新歓に行ったときなんやこの部活はと思いました。先輩方が物凄く頑張ってたからです。楽しそうな雰囲気を作ろうと必死に…見てて少し痛々しいほどに…すごく必死で興味がわきました。体重が武器になるとおだてられました。当時私は86kgでした。もともと合唱サークルに入る予定でした。あんま活躍できなさそうやったらすぐやめたろ。そう思って入りました。だから最初はまじめに練習も行かなければいけば騒いで帰る。ただの問題児でした。浜で雄叫びを上げてるときの峰野さんのドン引きした顔はいまだに脳裏にこびりついております。その節は申し訳なかったです。


小話

87代のインカレが終わりました。87代は確実にあのとき世界の中心にいました。狂喜。ワンチーム。誰もが喜び誰もが幸せになるチーム。物凄くこうなりたいというかっこいい姿を見せて87代は勝ち逃げしました。あれでモチベ上がらんわけがない。あの時は物凄く熱い漢でした。しかし、やる気だけの人間でした。


第二章 責任&逃避編

やる気と体重が評価され、88代では僕は投資の対象になりました。一回生にもかかわらず、石垣島で最先端のセールシェイプについて学び、配艇では同期の中でただ一人、先輩とペアを組ませていただきました。春からは諸事情で二番艇のクルーになっていました。同期からは羨望と賞賛を受け、OBさんには励ましの言葉をたくさんいただきました。嬉しくなかったと言えばうそになりますが、このころから自分の中に異変が起きているのに気づきました。責任感。大所帯の部活において投資対象は限定されます。早い時期に投資を受けることは大変ありがたいことですが、同時にチームのなかで責任を背負うことになります。上手くなってチームに還元しなければ、大好きな先輩の成績をけがしてはならない。そんな増長した責任感と戦い、また苦しみながらレースシーズンを迎えた。覚えているのは七大戦でのリコール。あそこで何かが切れた音がした。悲願の完全優勝は逃した。理由は言わずもがなリコールである。一切責められなかった。他の上回クルーを差し置いて、最高学年のクルーの代わりに出さしていただいているのに...耐えられなかった。当時怪我も重なった。ここぞとばかりにヨットから逃げた。逃げていたら88代は終わっていた。


89代が始まった。上が少ないがために最上回クルーになりあがった。最高学年のクルーとしてなんとかしないと。戦力にならないと。もはや義務感しか残らないまま一年間を過ごした。簡単に逃げ出したくなるヨットから辞めない為に、今度は仕事を増やした。広報渉外部の肥大化の背景には、そういった私のエゴがあった。責任を増やし義務義務義務義務…時には押しつぶされながら結果を求めた。当時はまだ成長の型が定まっておらず、思いばかり先行して全く上達をしなかった。ヨットはもう楽しくなかった。憎らしいほど白く、憎らしいほど艤装が簡単なスナイプ。もう心がやられていた。自分よりめきめき成長を続け上達している後輩が出来た。最終的に最もクルーとして熱い三番艇クルーには後輩の西川が選ばれた。一番艇のクルーもこれまた後輩の明見だった。正直誰もが実力通りだと思っていたと思う。発表されたときホッとしたような、しかし悔しいような。一年という時の流れを周回遅れにされたという屈辱。沢山投資されてきた自分に比べ少ない投資で結果を残す後輩をみて、自身の存在意義が分からなくなった。インカレ当日を迎えた。その時の想いは昨年のブログに書いているので割愛します。沢山のミスをした。個人のミスはチームの得点として京大ヨット部に加算された。順位が低くても着実に取りこぼしを喰らいあがっていくトップ層との差を感じた。最高学年となった。インカレは俺にとって恐怖の対象でしかなかった。また何かが切れた。


インカレ終了後真っ先にしたのは休部だった。頭の中に退部はあったが仕事の引継ぎのため休部にした。いろいろな理由はあった。苦しいヨット、消費するお金と時間、素が出せない同期、ヨットに乗るだけで引き起こされる体調不良。辞めたい理由はポンポン出るのに、続けたいという理由が見つからなかった。最高学年で休部?正気か?色んな人がそう思っただろう。90代の始まりは壮絶な逃避から始まった。


沢山の先輩が心配してご飯に連れていってくださった。同期もご飯に誘ってくれた。後輩は気を使いながら心配してくれた。うちの部員は誤解されやすいが社会に適合できないやつが多いだけで人間としては善なのである。何かに悩んでるときに誰か相談できるという環境は本当に恵まれていると思う。この甘やかしフェーズがなかったら私は間違いなくここから消えていた。本当に周りの人間に恵まれていたと思う。


第三章 復帰編~バカな夢

部活からはなれて色々な人の考え方や本と出会い、私はゆく河の流れの様に変化していった。そんな中復帰しようという決め手となったのは、90代主将の森田だった。森田は今まで成し遂げられなかった、470,snipe,マネージャーを一つにしようとしたり、部員を礼儀正しくしようとしたり、そんなん不可能やろということを達成するために夢見事のようなことを非常に楽しそうにしゃべるのである。夢のようなことに本気で取り組む森田は自分としてはすごく素敵だなと心から思い、そういったことをできるのはこの部活でしかないと考え、春合宿から戻ることを決断した。最後の一年は自分に投資されるくらいなら教育に回ろう、森田のチャレンジを手伝えたらそれだけで御の字だと思っていた。ヨットは相変わらず嫌いだった。春合宿のストレスで合宿中は常に微熱が出て、だるくて、のども痛くて、心は真剣に乗らないといけないと思うのに体が全くついてこなかった。転機は同志社ウィークに訪れた。衝撃の結果を残した。51位。ペアの後輩が泣いてしまうくらい結果を出せなかった。ちなみに泣いた後輩とは鳥越である。


本当にバカでくさい話だけどこの涙は私をプレイヤーとして正常に着実に火をつけた。春には二人でそんなの出来るわけないだろという目標を立てた。「インカレ強風スタメンでシングルをとる。」現状との差分が大きすぎて誰もが笑うような目標だった。京大の中でも六番艇。しかもふっるい奥村ボート。他大の下級生と何回もミートするような実力で何を言っているんだ。奇跡が起こる前提でロードマップを敷いた。鳥越のやる気が私に少しずつ前向きな熱意をくれた。適当に今まで乗ってきたせいで教えられることはほとんどなかったけど、真剣に自分の成長、艇の成長だけを考えてレースシーズンまで乗った。途中備品が奪われそうになれば、めっちゃ文句を言って死守した。これが噂の183事件である。自分に投資は必要ないとか言ってたくせにな。その分当然責任は生じるのだと昔なら考えていたけど、夢しか見てなかったから、そんなもんは全部おいてった。相変わらずヨットは嫌いだったけど、頑張った。むかえたプレ13/40京大内3位、個人戦予選9/39 京大内3位と大躍進を遂げた。特に個人戦予選は最終レース前まで6位の桂田と二点差と個人戦も射程にとらえられる位置につけられた。個人戦行けなくて悔しそうにする鳥越を見て申し訳なさとこいつは将来大物になるなという予感がした。


夏遠征は頑張った。頑張ったからフルセールに詳しく書く。あんま投資はされんかった、投資されないのは初めての経験だったから変な気持ちだった。飛んで団選予選、紆余曲折を経てほんとにたまたま鳥越と4番艇としてまた組むことになった。なおこれは予選の3日前に知らされた。優勝を目指すうえで4番艇以下の優先順位が低くなるのは当然なのだが、急すぎてびっくりした。まだこの時は出たメンバーより走れるのになとはまだ思ってなかった。予選で交代していくうちにあれ?と思い始めた。俺らのほうが走るくね?スナイプはあの風域は同志社京大の二強なので、結果にはわずかにしか出なかったが、現状定義されてる3番艇に比べ俺らのほうがちょっと走ってるやんと思った。


プレインを迎えた。16/98成績は3番艇だった。どの大学の4番艇より走ってた。順位帯にはジュニアと丸顔しかいなかった。ビッグフリート慣れしていないせいで大きなミスを犯すこともあるが、着実に修正を重ねて桂田のところに4/5レースリザルトで勝ってた。一レースシングルで帰ってくることが出来た。あの春にたてた無謀な目標に実力が届いている。すごくうれしかった。そしてインカレを迎えた。夢想していたような終わりではなかった。


冗長に書きました。何が伝えたかったと思いますか?一番伝えたかったのは夢に打ち込んでくれというもの。未経験が経験者に勝つ。夢です。どう考えてもかけてきた時間が違うのだから。ここ数年京大ヨット部は国公立大学の雄としてトップに君臨してきた。これだけでもすごいこと。けどチャレンジをして欲しい。これに満足してほしくない。どれだけ無理だと思おうとも、やってみてください。結果が俺みたいに出ない人もいます。最後は運です。ほんでそれも含め実力です。

わくわくするような夢に打ち込むこと、京大ヨットにはその環境が整っている。これは自信を持って言えます。結果が出なくても納得は出来ます。冒頭虚無と後悔と書きました。結果は出なかったのですが、すごく納得は出来ています。あーこれ時間たてば美化されるんやろうなって。大学生という貴重な時間、お金は部活をしていたら吸い取られます。だからこそ、その貴重な時間とお金を投資するならわくわくするようなチャレンジをして欲しい。長く書きすぎて回想もはさんだせいで伝わりにくかったと思いますが、これがこの文章で一番伝えたいことです。


これは書こうか迷いましたが書きます。休部したことについて私は、間違えではなかったと思います。トラックトラックみたいなもんで部活から離れて部活を俯瞰することは、沢山の今まで見えていなかったことが見れると思います。いいとこも悪いとこも。相談も乗ります。どんとこい!


引退後とても嬉しかったことがあります。91代の目標がなんと総合三位達成。圧倒的に戦力は落ちるのにもかかわらず!!たまげるくらいバカで夢のような目標を後輩が掲げてくれました。とっても応援したくなるチームです。スローガンは「一蓮托生」いい言葉です。この言葉を見て僕はめっちゃ都合よく解釈して嬉しくなりました。(結果を残せる代はほんの一握り。引退した先輩の悔しさを背負って現役は活動し、先輩はOBとして部活を支える。結果が出ればみんなで喜ぶ。結果に対しみんなで責任を持つ「一蓮托生」という言葉がまさに、今の京大ヨット部なんだと!)私も1人のOBとして部活にかかわらせていただけたらなと思います。


最後の最後になってしまいましたが、私たちの活動を応援してくださっているスポンサーのみなさま、OB・OGのみなさま、保護者の皆様今まで温かいご支援を頂き本当にありがとうございました。これからも、今後ますます発展していくであろう、京大ヨット部に変わらぬご支援ご声援を宜しくお願いいたします。


京都大学体育会ヨット部 第90代 SNIPEクルー

高槻 達起


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