引退ブログ 大山亮(スナイプ・スキッパー)
083愛好家の一人として先日引退しました、86代スナイプスキッパーの大山亮です。まずはじめに、引退した日の自分の日記を載せたいと思います。何かを伝えたいとかそういうことではないですが、ヨット部で過ごしてきた思いが詰まっているように感じたのでそのままを残しておきます。
インカレを終えてヨット部での最後のひとときを過ごした翌朝。7時半頃、村山に車で駅まで送ってもらうことになった。扉を開けて外へ出た瞬間、引退を実感した。珍しく朝から東風の吹く琵琶湖を見て、必死でもがき続けてきた自分のヨット部生活は終わったんだと突きつけられた気分だった。おそらく村山も同じ気持ちだったのだろう。「現役として部活に来ることもうはないんか。」ぼそっとそう一言放ちながら、車を発進させた。
動き出してほんの1秒もたたないうちに、村山の目からは涙がこぼれ落ちた。車をとめ、「すまん。」と言い放ち、部員へ最後の別れを告げに戻っていった。インカレ最終日、泣き叫ぶ自分を村山は笑って抱きしめてくれた。だからこそ少し意外だった。村山の涙を見たのは2回目だったように思う。1回目は和歌山インカレでの引退式のとき。村山にとってのヨットは、自分にとってのヨット以上に大きな存在であっただろうことをひしひしと感じた。1年の頃から誰よりも結果を残し、誰も切り開いたことのない道を常に最前線で先導してきた。ヨットがうまいと勝手にみんなから思われるプレッシャーの中で、チームの誰よりも自分に実力がある中で、村山はもがき苦しんできた。成長するということに誰よりも向き合い、自分には計り知れないものを背負いながらヨットに乗っていたのだと思う。村山にとってはヨットが生きる全てだっただろうし、誰よりもヨットを、そしてヨット部を愛していた。10数年間続けてきた学生ヨットを引退する村山の気持ちに触れて、自然と自分の目からも涙が溢れた。
大津京駅に着くまで、朝日と東風を浴びながら2人で無言で泣いた。一緒に雷に打たれた日も、インカレで1,2,3フィニッシュを決めようと語り合った日も、ヨット部を休部することを相談した日も、つい昨日のことのように脳裏に浮かび上がってきた。
駅に着いたとき、村山は自分に向かって言った。
「俺がもっと成長できていたら…。ごめんな。大山がゼロから成長していくことを羨ましいと思うこともあった。自分がどう成長していいか分からない時期が多かった。後回しにしてしまう性格で、やりきれないことが多かった。ありがとう。大山と一緒に戦えて良かった。」
村山がいなかったら自分はここまで成長できなかった。入部してクラス決めをしてから、村山を超えることが何よりのモチベーションだった。ロフトは村山の隣でずっとヨットのことを聞きまくっていたし、下級生の頃のレースは1レースでも勝ったらご褒美な、といって常に追いつけると思い続けてきた。村山の勝ちたいという熱い気持ちに何度も救われたし、うまくなったなと村山に褒められたときは認められた気がして、何よりも嬉しかった。自分がうまくなればなるほど、村山はそれ以上にうまくなっている気がした。追いついたと思ってもすぐ村山はその上をいっていた。そのことを尊敬していたし、自分にとってかけがえのない存在だったと。その気持ちをそのまま、村山に感謝として伝えた。
乗る予定の電車はとっくに発車してしまったけど、2人で車の中で泣き続けた。そして、これから会うたびにお互いが成長した姿で会おうと約束した。これ以上ない仲間を持ったと思った。これから生きていくモチベーションは、これだけで十分だと思った。
車から荷物を下ろして、8時4分発の満員電車に乗り込んだ。今度こそ本当にヨット部を引退した。一生忘れられない、いや忘れてはならない一日になった。
思い返すとこの1年、インカレで前を走って優勝することだけに夢中になっていたように思います。自分がチームに貢献できることは、口で何を言おうがどれだけ努力をしようが関係なくて、最後インカレで結果を残すことでしかないと、和歌山でのインカレを終えてそう覚悟を決めました。それまで逃げようとしていたあらゆることから逃げずに1年間やりきろうと決めました。「自分が走れば絶対に優勝できる」それが最後の1年ヨットを続けるモチベーションでした。だからこそ、最終日ノーレースを告げられた引退のホーンは、何よりも大きく重くのしかかる受け入れがたい事実でした。レースができなかったもどかしさとともに、やり場のない悔しさと悲しさと責任感がまざった涙が溢れてきました。みんなが案外けろっとした顔をしているのを見て自分がおかしいのかと一瞬思いましたが、それでも曳航中ずっと涙は止まりませんでした。
ヨット部にかけるいろいろな人の期待も犠牲も責任も、自分には勝って返すことしかできないのに、その唯一の方法を達成できなかったことが悔しくて仕方なかったです。チームのことを考える、後輩に技術を伝えていく、そういうことに気を配る余裕を持つことは自分にはできませんでした。ものすごく自分中心的なプレーヤーとして、一年間チャンスをもらい続けてきました。そんな自分が、結果も残せずに何ができたのか。インカレという舞台で確実に強豪私学と戦えるチャンスがあること、それを目指すことがものすごく素晴らしいものであること、それと同時にこのままでは優勝には届かないということ。この3つが誰かの心の中に刻み込まれているとしたら、自分がそれでもヨットで勝つことにこだわり続けた意味があるのかなと思います。
何か自分がチームのためにばかりヨットをしていたような表現にもなってしまいましたが、決してそうした責任感のみでヨットに乗っていたわけではありません。もちろん様々なプレッシャーや背負い込むものもありましたが、それ以上に、ヨットという競技やヨット部での日々の活動にはまりこんでしまいました。自分にとってこの一年間は、楽しいという感情を超えて、しんどさも怖さも喜びも緊張も悔しさも興奮も全てが充実した時間として残っていく最高のものでした。お金も時間もたくさんかけて年老いた083を整備したり、半日でもヨットに乗れるなら新幹線で遠征に行ったり、オフの日はトラックトラックを何度も見返して、風がない日や曳航中までハイクアウトをして、動画100本自主練して、無風でも元気に出艇して、赤旗で89度まで船が傾いてもそれでもまた帆走しはじめて…そんなバカみたいにがむしゃらにヨットに取り組んできたことが、今となってはまさにその証明なのかなと思います。
引退して2週間、現役の頃とは違った少し引いた目線で様々なシーンを振り返ることが増えました。思い返すと、勝ちに焦りすぎて、いろいろな人に迷惑をかけたことがあったように思います。本当にたくさんの人に助けていただきました。特にペアの2人には、たくさん大変な思いをさせてしまいました。勝手に自分の意思を突き通したりするし、たくさん理不尽なことも言ったし、要求が多くて常に気を張っていないといけないし、本当に扱いにくいスキッパーだったと思います。話が脱線してしまうかもしれませんが、チーム083の話を少ししたいと思います。
まずはそうですね、3人でペアを組むことに関して。クルーが2人、スキッパーが1人という状況は、クルーにとっては常に自分の立場を競わされつつ、その勝負に負けなかったとしても出場の機会が大幅に減ってしまうことを意味しています。一方でスキッパーは、自分の技量不足をクルーの体重で補うことができる上に、競争相手が一人減ることを意味しています。もちろん、「チームのために」という面で3人ペアが効果的なのは理解しつつも、クルーの2人からしたら簡単には受け入れられない選択だったに違いありません。対等でない関係性に対する不満を面と向かって言われたこともありました。そんな状況の中で、整理がなかなかつかないながらも、チームのためにこの決断を受け入れてくれた2人には本当に感謝しています。練習時間もレースの経験も犠牲にしてついてきてくれている2人に自分ができることは、一緒にうまくなってインカレで最高の景色を見ることしかないと思ってやってきました。恩返ししたいというその気持ちが、自分の中でプレッシャーでもあり、強いモチベーションにもなっていました。最初は本当に、技術的な面でも精神的な面でも大変な事ばかりでなかなかうまくいかなかったですが、だんだんと3人で上達していける環境ができあがっていったと思います。外からどういう風に映っていたのかは分かりませんが、ペアの中でぶつかり合うこともかなり多かったです。お互いに対して厳しく向き合っていたペアだったと思います。ぶつかるなかで、一緒にもがきながら、なんとか道を探していくようなそんな日々でした。3人で必死にやってこられただけに、個人戦予選は今までで1番、死ぬほど悔しかったです。夏のしんどい蒲郡の日々も、全力で喜んだ団体戦予選も、整備の日も居残り練習の日も、最後のインカレの晴れ舞台でも、どんなときでも最後まで2人がそばにいました。逃げる理由なんてたくさん転がっている中で、それでも逃げずに向き合ってこられたのは、この3人だったからじゃないかなと思います。最後まで一緒に戦ってくれてありがとう。チーム083は、いろいろな人から応援してもらえるチームになりました。結果が出ていないときでも、信じてもらえるチームになりました。それが何より嬉しかったし、自分たちの誇りだと思います。
来年のスナイプリーダーになるアミタニサンに一言メッセージを。新人戦でハイクアウトに苦しむ網谷を無理矢理反らせていたら結構トラウマになっていたみたいで。ちょっと走ると倒れそうになっていた網谷が、ここまで成長したのはたぶん影でコツコツ努力をしてたからやと思う。最後インカレで、前を走る経験をさせてくれてありがとう。謙虚な姿勢は大事やけど、網谷がそういう努力をしてることはみんなに伝わってるから、安心して、自分の決断を堂々としていってほしい。誰よりも厳しく、それでいて誰よりも愛のあるリーダーに網谷ならなれると思う。それと、自分がクルーであるということも忘れず。その面ではしっかり1から全国の猛者たちと勝負してほしい。ため込みがちなところもあるやろうから、なんでも相談してくれ。期待しかないです。
網谷には後輩として気を遣うことなく気持ち良く乗ってほしいという思いがあったため少し甘めに接することが多かったですが、その分わかこにはしんどい思いをさせてしまいました。わかこにはどう思われても大丈夫だと信頼を置くことができたので、その分強く当たってしまうこともありました。喧嘩もたくさんしましたし、うまく噛み合わないこともたくさんありました。それでも、4年間で誰よりも一緒に乗ってきて、数え切れないほどの思い出がありますし、わかこのすごいところ、強いところ、優しいところをたくさん見てきました。なかなかこの場で言葉で簡単に伝えられるものではないですが、最大限の感謝を込めてメッセージを送ります。
「来年は絶対にこの舞台で、全てのレースに出続けよう。誰にも譲らない。」
こんな話してたの覚えてる?和歌山インカレの最終日、ハーバーバックしてくる京大チーム見ながら。今でも俺は鮮明にこのときの事を覚えてて。全レース二人で、ってのは思い描いてたのとは違う形になってしまったけど、それでも、インカレに出たこともレスキューに乗ったこともなかった3人が1年でここまでこれたと思うと胸が熱くなる。あの時決めたことを、理想論じゃなくて必死に現実のものにしようとする執念の1年間やった。必死すぎた。プライドとか捨ててとにかくいろんな人にアドバイス聞きまくって、動画見てもらって、合ってるか分からんけど自分たちなりにヨット理論みたいなの考えようとして、もがきにもがいた一瞬の1年やったな。一緒についてきてくれてありがとう。引っ張ってくれてありがとう。それから、いつも信じていてくれて本当にありがとう。うまくいくことの方が少なかったけど、わかこと乗れたおかげで最高に充実してたし成長できたよ。
すみません、脱線しました。自分がいろいろな人に支えてもらった話の続きです。ここまで自分がヨットに集中できたのは、大変な状況が続く中、幹部が必死にチームをまとめてくれたからです。86代のメンバーは、責任感の強い人たちが多かったように思います。みんながチームのことを考えて、自分が何か力になりたいと思うからこそ、意見が合わずに言い合ったりすることも多かったです。厳しく物事を言い合える環境であったことが、86代ヨット部の素晴らしいところだと感じています。お互いを信頼して、自分を犠牲にしてでもより良い方向へチームを導こうとする姿勢は、86代が新チーム結成時に掲げて目指していたことでした。この代の取り組みは必ず、今後の京大ヨット部の成長につながることでしょう。同期のみんなに、それをまとめてくれた幹部のみんなに感謝しています。
最後に。新チームが始まるときに、結果以外の目標として「最後にヨット部をやりきってよかったと本気で思える1年にする。」ということを掲げていました。それに対して今、大学生活の大部分を最後までヨット部に捧げてよかったなと思うことができています。これは当たり前のことではなく、そうした環境をつくりあげてくださった先輩方の取り組みがあり、活動を支え見守って下さった監督コーチOBの方々、目標に対して様々な思いを持ちながらも共に突っ走ってくれたチームメイト、そして最後まで逃げずに向き合い続けた自分がいたからこそのものだと思います。スナイプ級4位という結果自体は、残念ながら誇れるものにはなりませんでしたが、こうした思いの中で引退を迎えられたことが、このヨット部を通じて自信を持って誇れるものになりました。ヨットを通じて出会えた全ての人々への感謝の気持ちをもって、引退のブログを締めせていただきます。
4年間、本当にありがとうございました。
京都大学体育会ヨット部
86代スナイプスキッパー
大山 亮
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