京大ヨット部を引退して #8


4回生snipeクルーの奧村歩です。11月の全日本インカレ団体戦をもって86代へと代交替し、私たちは引退しました。ここでは、私のヨット部での歩みを振り返りつつ、引退の挨拶をしたいと思います。

私が京大ヨット部で過ごした4年間は、楽しい思い出や容易く美化できるような思い出ばかりではなく、たくさんのしょっぱい思い出もあります。様々な感情の思い出が含まれた私のヨット部生活はあまりにも多面的であり、「充実した4年間でした」の一言では片付けられない程のかけがえのない日々でした。

しかし、そんな私にも、ヨット部生活を通して根幹に据えていた行動原理がありました。それは、「チームの勝利に貢献する」ことです。私は愛する京大ヨット部のチームみんなで目標を達成して笑顔で喜び合うところを夢見ていました。そのためにまず自分自身が心技体の総合において全国のトップ選手達に伍する実力をつけ、チームに信頼されるsnipeクルーを目指すことが不可欠だと考えていました。さらに、そうした個の実力向上のプロセスで、他のプレーヤーに良い影響を与えて、チームの勝利へと繋げたいと考えていました。つまり、貪欲に実力向上を追求する歩みの延長線上に存在する「チームの勝利」に最も高い価値を見出していました。その上で、自分がレースメンバーに選ばれるか否かはチーム内の相対的順位で決まるものに過ぎません。従って、「チームの目標達成」という大きなテーマを巨視的に捉えると、私にとってチームの勝利こそが自分の勝利であり、「レースメンバーになれるか否か」それ自体は小さな問題でしかないと考えていました。

一方で、春以降の85代は「感染拡大防止」のための長期間の活動自粛に悩まされました。特に私は、学部独自の「活動制限指針」により、他の部員よりも活動再開が遅れました。再開直後に迎えた個人戦予選は、同じく練習量の少ない大山と急造ペアを組んで出場しました。もちろん私は再開が許可された喜びで、前向きなエネルギーに満ちていました。しかし、彼のセーリングに助けられた一方で、私は自分の圧倒的練習不足を感じざるをえませんでした。「チームの勝利に貢献するsnipeクルー」という理想からかけ離れた現実の中で、「練習してない割には良い順位じゃん」という、チームメイト達の無邪気な言葉をまっすぐに受け止める事ができない自分がいました。自分のレース内容には全く満足できなかった。こんな順位で終わって良いはずがなかった。喉元まで上がってきたその言葉を何度も飲み込んで、愛想笑いしていました。

翌週の団体戦予選で470チームは敗退しました。その後、とあるチーム事情により、当時の4番艇スキッパーの南野とペアを組むことになりました。これは、私自身がインカレ団体戦のレースメンバーになる可能性が高まることであり、自分の実力だけで掴んだわけではないこの立場に戸惑いました。470との総合の目標達成は叶わないけれども、「国公立大のsnipe級二連覇」という前人未到の目標に向けて志を新たにしていた中で、私が彼のクルーを務めることが果たして「チームの勝利に貢献する」最善の道なのか、私がこのような形でレースメンバーになることでチームを勝利から遠ざけてしまわないか、その時の私にはわかりませんでした。そして、「自分はここにいるべきではないのかもしれない」という喉に刺さった小骨のような飲み込み切れない思いがありました。それでも、私自身がやるべきことは誰とどのフネに乗っても変わらないはずであり、本戦まで残り1ヶ月しかない中で歩みを止めている暇はありませんでした。いつ再び自粛要請が出るかわからず先が見通せない状況で、私は「今日が最後の練習かもしれない」といつも思っていました。そして、私が南野と乗るのが「チームの勝利に貢献する」最善の道であるということを自分自身で証明するには、私達自身がインカレの舞台で前を走るしかないと考え、琵琶湖に通ってひたすら自主練を繰り返しました。私以上にショックを受けていてもおかしくないはずの南野の前向きな姿にも助けられ、私は自分のやるべきことに集中できるようになり、ネガティブな思いと上手く付き合えるようになりました。どんどん上達していく南野を間近で見ながら、また、自分の実力向上を実感しながら、インカレで前を走るのを楽しみにしていました。

 そして迎えたインカレ本番では、一日目に福矢金岩ペアが順位を崩してしまいました。二日目は私たちが彼らと交替してスターティングメンバーとして臨むことに決まり、ほんの少しだけ寝付きの悪い夜を過ごしました。私たちは、艇数の多い中のスタートで抜け出せず、また風向の変化を掴みきれず、思うような走りができませんでした。京大は順位を立て直すことができないまま二日目を終えました。最終日、私たちは再びスターティングメンバーとしてレースを任されることになり、いつも通りの自艇の走りを活かした良いレースをしたいと思っていました。ゼネリコでスタートやり直しが繰り返される中で、スタートの要領を掴んできました。けれども、成立したレースではまたしてもトップスタートが切れず、大きく振り切れる風や交錯する470の艇団にも悩まされて順位を上げ切ることはできませんでした。

最終レースのフィニッシュ直後、サポートボートの長塚コーチの「走って帰ろうか。」という言葉を聞いた瞬間、堰を切ったように涙が溢れました。私にこのレースを任せてくれた他のレースメンバーや、陸から実況システムで見守ってくれたチームのみんな、何一つ文句を言わずに私と最後まで戦ってくれたペアの南野に対する申し訳なさ、チームに勝利をもたらすことが出来なかった悔しさでいっぱいでした。そして、帆走でハーバーへと帰る最中、南野にかける言葉をずっと探していましたが、溢れ出る嗚咽を堪えきれず何も言えませんでした。防波堤から手を振ってくれるみんなを見ると、頭を下げたくなって帽子とサングラスを外しました。でも頭を下げても遠すぎて何も見えないだろうと思ってとにかく手を振り返しました。着艇直後、私は真っ先に控えのレースメンバー達の肩を抱いて謝りました。

結果として、今年のインカレでは13位でした。これは、私が高校時代のコーチに言われた「日本一のチームは日本一の『練習』をしてきた」ということと同様に、私たちのやってきた「練習」が全国で13位だったというシンプルでドライな事実を示しているのだと考えています。もしかすると、絶対的な練習量が少ない中でもやり残したことや妥協があったのかもしれないですが、その答えを見つけることはできません。その一方で、私たちがインカレにかけてきた想いや、自分たちの実力向上とその先にあるチームの勝利を心から願う、定量不可能な「情熱」は間違いなく本物であったと信じたいと思います。そして、私たちの選んだ道が勝利への最善の道であることを証明出来なかった悔しさと、チームのみんなに対する申し訳なさ、愛するチームを代表するレースメンバーとして過ごした1ヶ月間の楽しさ、これら全てが同居した混沌たる私の気持ちも本物であり、晴れやかで清々しい引退劇のように安易に美化することなく、ありのまま全てを認めて真空パックのように大切にとっておきたいと思います。

このように、私たちは「インカレ総合3位、snipe級2連覇」という目標のもとでこの一年間を歩んできましたが、それには遠く及ばない結果となり、チームみんなで喜び合うことも叶えられませんでした。その一方で、自分が心の底から大切にして誇りに思ってきた「夢」や「目標」が持つ大きな力を学びました。これらは私を幾度となく突き動かし、心を揺さぶってきました。私はそうした歩みの中で人を知り、自分を知ることが出来ました。

こんなに本気になれる素晴らしい夢や目標を立てることができたのは、先輩方が私たちに素晴らしい景色を見せて下さったからです。結果で恩返しすることはできませんでしたが、皆さんが私たちにしてくれたように、一緒に私も後輩の夢を応援していきたいと思います。

後輩のみんなにも自分の夢や目標に誇りを持ってほしいと思います。みんながそれを叶えて、その歩みを振り返ったときに一つでも多くの笑顔と嬉し涙があることを願っています。

そして、私は春から新しい一歩を踏み出します。地理的には遠くなってしまいますが、京大ヨット部に素敵な風が吹き続けることを祈っています。

最後になりましたが、

この部を様々な角度から見守り、支えてくださった入口監督

話を聞いてくださり、アドバイスをくださったコーチや先輩方

私たちの活動を支えてくださった大学やOB会、スポンサーの皆様

難しい状況でレースを実現してくださった学連の皆様

離れたところからそっと見守って応援してくれた家族

部活に行くことを認めて頂き、応援してくださった研究室の皆様

そして、この道のりを共に歩んだチームのみんなに、心より感謝申し上げます。

奥村 歩

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